1300年以上の歴史と伝統

鵜飼のあらまし

 鵜飼とは、鵜を巧みに操って川にいる魚を獲る漁法のことです。
日本での鵜飼の起源は、稲作とともに中国から伝承したとする説、日本と中国で別個に発生したとする説があり、定かではありません。各地の古墳から鵜飼を表現しているとみられる埴輪が出土しているため、少なくとも古墳時代には鵜飼が行われていた可能性があります。文献では、7世紀初めに中国で成立した『隋書』「東夷伝倭国条」や、8世紀に日本国内で成立した『古事記』『日本書紀』などに、鵜飼に関する記述が見られます。

保渡田八幡塚古墳出土
鵜飼埴輪 高崎市教育委員会蔵

長良川鵜飼のはじまり

 美濃国(現在の岐阜県)では、7世紀頃から鵜飼が行われていたと言われています。正倉院に納められている文書の内、美濃国と伝えられる702(大宝2)年の戸籍に、「鵜養部目都良売(うかいべのめづらめ)」という記述があります。この人物は、鵜飼を生業としていた集団の出身と推定されており、長良川鵜飼が1300年以上の歴史を持つとする由来となっています。
室町時代になると、将軍足利義教が墨股川(長良川)で鵜飼を観覧したという記録や、前関白太政大臣の一条兼良が現在の岐阜市鏡島の江口付近で鵜飼を観覧したという記録が見られます。

「鵜養部目都良売」の記述(正倉院宝物)

信長公の愛した鵜飼

 鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。1568(永禄11)年6月上旬、武田信玄の使者である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が、信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約に伴い、祝儀の進物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねました。岐阜来訪から三日目、信長は秋山伯耆守を鵜飼観覧に招待しました。この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じています。また、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も、捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりするなど、信長流のおもてなしが最大限に発揮されていました。

「織田信長像」崇福寺蔵

将軍家の保護を受けた鵜飼

 1615(元和元)年、大坂夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子が鵜飼を観覧したと伝えられています。その際食した鮎鮨を気に入ったのでしょうか、同年、将軍家への鮎鮨献上が始まりました。同時に、鵜匠には川の自由な航行や、冬に鵜の餌を求めて餌飼(えがい)をすることが認められるなど、さまざまな特権が与えられました。
1646(正保3)年、初代尾張藩主徳川義直の鵜飼上覧を皮切りに、歴代尾張藩主による長良川鵜飼の上覧が慣例とされてきました。また、1688(貞享5)年6月、松尾芭蕉は岐阜を訪れ、弟子とともに鵜飼を観覧しました。その時に詠んだのが「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」です。

「長良川鮎鮨図巻」(明治時代/岐阜市歴史博物館蔵)

「長良川鮎鮨図巻」(明治時代/岐阜市歴史博物館蔵)

「長良川上覧鵜飼図」
(狩野晴真筆/江戸時代後期/岐阜市歴史博物館蔵)

天皇家の鵜飼

 1878(明治11)年、明治天皇の岐阜巡幸中に随行した岩倉具視らが鵜飼を観覧し、天皇に鮎が献上されました。
このころから、岐阜県は宮内省(現在の宮内庁)の管轄の中でその庇護を得ようと考え、宮内省に対して、皇室専用の「御猟場(ごりょうば)」と、管理官の「監守」、御猟場で漁をする公式な役職としての「鵜匠」の設置を願い出ました。その結果、宮内省は1890(明治23)年、長良川流域の3か所を御猟場(現在の御料場)と定め、通年の禁漁区としました。同時に、鵜匠は宮内省主猟寮に所属し、ようやく安定した地位を得ることができました。

明治時代の鵜飼の絵葉書(岐阜市歴史博物館蔵)

古津の御料場

世界に誇る長良川鵜飼へ

 1922(大正11)年、イギリスのエドワード皇太子が長良川鵜飼を観覧しました。その他にも、国内外の賓客が多数、長良川鵜飼を観覧しています。世界の喜劇王チャールズ・チャップリンは、1936(昭和11)年と1961(昭和36)年の2回長良川鵜飼を観覧しており、「ワンダフル!」を連呼し、鵜匠を「アーティスト」と呼んだとも伝えられています。
現在長良川鵜飼は、毎年10万人を超える観光客が鵜飼観覧を楽しんでいます。昭和40年代には、30万人を超える観覧者数を記録したこともあります。
このかけがえのない日本の宝を世界の宝に、そして未来へと継承していくために、岐阜市は長良川鵜飼のユネスコ無形文化遺産登録を目指しています。

1974(昭和49)年の鵜飼開き(岐阜市広報広聴課蔵)